デザイナーになるまで(4)

※この記事は、デザイナーになるまで(1)(2)(3)の続きです。

私は27歳でヤマハ株式会社の傘下にあるデザイン部門(ヤマハメディアワークス事業部、当時はワイピービデオ株式会社)に入りました。とはいえ、バンド活動も絶賛並行中でしたので、あのときの日々は本当に身を削るような忙しさでした。朝から夜20時くらいまでは会社でデザインの仕事をし、そのあと新宿の音楽スタジオで深夜までバンドの練習を行うというような生活を続けていました。
デザイナーとしてのキャリアは、まさにこの時からスタートしたわけですので、自分より年下の先輩もいるような環境。でもまったくそれは問題ではなかったです。むしろ、好きなことをやりながら給料ももらえるという喜びに、とても新鮮な感動を覚えていました。仕事というものは、どこか自分のエゴを抑え、ストレスに耐えることのようにも感じていたので、「デザインをつくることが仕事である」という、こんな恵まれた状況はいつまでも続くはずがない、何かそのあとにバチでも当たるんじゃないか、とさえ思ったりしました。

ただ、私の覚悟はまだまだ中途半端でした。バンドの方も、月に2〜3回は都内のライブハウスで演奏していましたし、ライブにはレコード会社やプロダクションの人がときどき見に来てくれていたので、「音楽でプロになる」ということも視野にいれながら、迷いながら、自分の将来を模索していました。音楽もデザインも、夢や憧れから少しずつ「目の前にある現実の厳しさ」に変わっていき、付き合っていた彼女との将来も含め、徐々に追い込まれていたと思います。当時の自分には「何かを選択して、何かを捨てなくてはならない」という固定概念があり、焦りが募っていました。でも、音楽かデザインか、どちらともつかない二重の生活の中、削れるものは睡眠時間という方法で、身体が壊れる寸前までやっていたと思います。
もっと賢くやる方法もあっただろうけど、でもあの時の焦りやもがきが、今思えば、とても大きい財産となっていると思います。

デザイナーとしてのキャリアに話を戻します。
入社した会社は、大きな企業のインハウスの仕事が100%でしたので、いわゆる外部のクライアントという存在がなく、勤務時間のほとんどは社内でMacに向かっていました。とはいえ、デザインを仕事としてつくることははじめてでしたので、先輩のアシスタント業務です。その会社では、カタログやパンフレット等のグラフィックから、ウェブサイト、映像、展示会などのサイン、プレスリリース等の作成まで、あらゆるデザインワークを行う部門でしたので、ジャンルを超えたデザインの基礎知識を身につけることができたのも、後のキャリアに大きく役立っています。
その中で、私は主にウェブサイトのデザインとコーディングを担当。先輩アートディレクターが作成したグランドデザインを受けて、それを下層ページに展開しながら、コーディングも行うような感じ。仕事でクリエイティブな活動ができることが本当に嬉しく、また、デザインの対象も、楽器や音楽機器の新製品ということもあり、デザインにのめり込んでいました。入社した当時は、それなりに自分でもデザインをつくってきた自負もあり、「だいたいの知識や技術はあるはず」と思っていましたが、日々先輩がつくるデザインを目にすることで、それが思い上がりであることはすぐにわかりました。とにかく先輩のデザインは緻密で、計算され尽くしている。自分のつくるものがいかに大雑把で浅いかを思い知らされました。

それを象徴する体験のひとつが、字詰めです。先輩がタイトル周りのタイポグラフィーをデザインしているとき、ずっと何時間もひとつの文字を右に左にずらしては考え込んでいる。はじめ、私には何をしているかはよくわかりませんでした。でもとにかくずっとやっている。1px単位でガイドを引き直してはまた調整。夜もふけ、私も含め、他の社員はみんな帰りましたが、翌朝出社してみるとまだ同じ作業をやっている。髪ボサボサになりながら。そんなことが一日二日ではなく、たびたびありました。
そして出来上がるデザインはいつも本当に素晴らしかった。発想力、緻密性、レイアウト、商品の魅力がくっきりと浮かび上がりながら、適度な主張を持っているデザイン。それが今でも私の手本となっています。「デザインのクオリティとは、こういう地道な作業の果てで生み出されるものだ」ということを強く心に刻まれたのです。

一方で、自分にはそんな才能があるのか、そんな情熱があるのか、自問自答を繰り返していました。でも、とにかく、この席に座っている以上は、全部吸収してやろうという気持ちも持っていたし、日々を丁寧に生きることが今できることだと考え、デザインの仕事も、音楽の活動も、全力で続けようと考えていたのです。

そんな日々の中、いくつかの幸運がありました。
ひとつは、あらゆる業務を横断的に任せてもらっていたこと。そのときは、グラフィックやウェブや映像を総合的につくるプロダクションということもあり、会社にはいわゆるウェブ専門のコーダーという人がいませんでした。私は、元々理系出身でしたし、プログラミングの基礎知識もあったので、HTMLはお手の物。また当時、Adobeが開発していたオーサリングソフトのGoLive(現在は開発終了)をメインに使っていて、当時GoLiveのサーバー構築機能や、スニペット機能(よく使うソースコードを再利用できるように管理する機能)などを使って、コーディング業務を効率化していました。それを評価してもらえたのは自信につながりました。
隣では、1pxの違いを気にして徹夜するまで作り込んでデザインしている。そのこだわりをアシスタントデザイナーである自分が受け継いで、下層ページへ展開し、コーディングまで責任を持って担当する。
このような環境下で学べたことは本当に大きかった。それは当時在籍した会社が、単なるウェブ制作会社ではなく、総合的なデザインプロダクションだったからだと思います。そして、ウェブの他にも、年に4回発行される会報誌のエディトリアルや、カタログの制作にも携わっていたので、全体のデザインに軸を通す、アートディレクターの重要性やその感覚を身につけられたのもこの時の経験があったから。でも、当時はただひたすらに目の前のデザインをやっていただけだし、辛いと思うことももちろんあった。たとえば、写真はまだフィルムだっかから、ポジからスキャナーで取り込んで、一枚ずつ傾きを直し、画質や色を補正し、先輩にチェックしてもらいまた補正する。商品カタログ用なんか、一冊でもう何百アイテムもあるから、これを一日中やることもあったし、トランスしながらやってました。
だけど、それがあって、画像補正のコツとか、参考書には絶対書いていないような自分なりの方法とか、RGBとCMYKの違いを体感として理解できたりとか、血となり肉となっていることがたくさんあると実感します。エディトリアルで使っていたソフトも、当時はクォークエクスプレスでしたが、はじめは写真の差し替え方もわからなかったけど、解像度の違いとか、印刷所とのやりとりで色校正をしたりとか。今のようなブロードバンド環境でもなかったから、データはMO(懐かしい!)でやり取りしていたので、納期ギリギリのときは、印刷所に自分で持っていってその場で色校正チェックするとか。
今時の若いデザイナーに言わせたら、テレカとか、ポケベルとかと同じようなものかもしれないけど、そのアナログな世界で学んだことは、私はラッキーだったと思っています。

もうひとつの幸運は、CMSの創成期に立ち会えたこと。
当時、私は社外向けのプレスリリース記事をウェブサイト用にHTMLに組んでアップするという定例的な仕事も担当していました。ヤマハの公式サイトのプレスリリース欄に、手組みのHTMLのプレスリリース記事をFTPでアップロードするという、今からすれば上場企業のやることとは思えないくらい、アナログで手間のかかる方法。たとえば、10月1日の11:00にリリース発表する、というような指示が広報部から来て、その日の10:55くらいからFTPソフトを立ち上げ、該当のHTMLファイルを選択して待機し、10:59あたりでドラッグ準備、11:00ちょうどに公開サーバーへドロップするという、その間にネット落ちたらどうするんだよという不安とも戦いながら、微笑ましくも抱きしめたくなるような(笑)作業をしていたのです。
そこで、CMS(コンテンツ・マネジメント・システム。ウェブサイトのコンテンツ管理を容易にできる仕組み)の登場。公式サイトに一部に「TeamSite」というCMSを導入することになり、その運用担当者として、私に白羽の矢が立ったのでした。当時、企業の公式サイトでCMSを導入するという事例は、ヤマハが日本ではじめてだった気がします(間違っていたらごめんなさい)。今のようにCMSのパッケージ製品もほとんどなく、まったく情報も手がかりもない中で、「佐野くん、来週メーカーのエンジニアが来るから、わからないことはその場で聞いてね」という無茶ぶりとともに、TeamSiteの開発元であるアメリカのInterWoven社から技術者(もちろんアメリカ人)が来て、カタコトの英語で聞くことに。そんなありえない状況で、英語のマニュアルとにらめっこしながら、なんとか構造を理解して、TeamSiteをマスターしていったのも、今となればよい経験。

まさに、ウェブ制作のフローがいわゆるグラフィックの二次元の世界から独立し、時空を超えてコンテンツを管理するという三次元へと発展する瞬間を体験できたと感じました。CMSの導入で、当然、私の担当するプレスリリースの制作もフローが一変しました。またフローだけでなく、社内での立場も変わっていったと思います。広報部主導で進められていたスケジュールが、CMS内で制作〜承認〜公開までの管理を行えるようになり、各工程の跨ぎは、自動設定で行える。これは画期的でした。そのことで、私は指示をされる側から指示をする側に周り、大げさにいえば、「ウェブをわかっている人」として、社内的立場の形勢逆転さえも勝ち得たような感がありました。

それが2002〜2003年頃のこと。
あの頃の経験をひとことでまとめるなら、「デザインの基礎」と「ウェブの創生」を同時に、スポンジのように吸収していったということです。それらが、今日の、私のキャリアの礎となっていることは、間違いないと思います。

2016-12-31 | Posted in 散文のようなものComments Closed 

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